消灯部屋

ショートヘアー

晴れときどき煙

地球上からいっさいの生物が絶滅したとするね。

──いきなり、何さ。

そのとき、それでも夕焼けはなお赤いだろうか。

──何か不気味な色に変わるとでも?

いや、見るものがいなくとも夕焼けは色をもつか、ということ。

──もちろん何か色をもつだろうね。例えば、核戦争のあと、見られることもなく西の空が奇妙な色に染まるとか。だけど、突然どうして?

漠然とした言い方で申し訳ないけど、例えば見ることと見られた対象ないし世界ということで、どうもなんだか釈然としない気分がある。いま、西陽に照らされた雲を見ていて、以前少し考えていたことを君と考えてみたくなったんだ。君はみるものがいなくとも夕焼けは何か色をもつだろうと言ったね。でも、私はもたないと思う。

──どうして。

もし、青と黄の系統しか感知しない生物だけが生き残ったらどうなる?

──そうしたら、なんだ、何色になるんだ?暗い緑に染まるのかな。

そのとき、夕焼けの色は暗い緑だ、と。

──そうなるね。

その生物も死滅したら?

──そうなったら・・・・・・、そうか。そのとき夕焼けの色も「死滅」しちゃうか。もう夕焼けは何色でもなくなる。

色は対象そのものの性質ではなく、むしろ、対象とそれを見るものとの合作とでも言うべきではないか。それゆえ、見るものがいなくなったならば、物は色を失う。世界は本来無色なのであり、色とは自分の視野に現れる性質にほかならない。そう思わないか?

──分かるような気もするけど、なんか、おかしいな。

うん、私もどこかすっきりしない。だが、どこがおかしいのだろう。

──例えば、ぼくが死んだって世界は色を失うわけじゃないよね。

『哲学の謎』 著:野矢茂樹

 

 

素敵な文章に憧れている。素敵な文章が書ける人を尊敬している。僕にとって素敵な文章とは、言葉にするのは難しいけど、例えるならば桜東風のようなもの。温かく体に触れて、しっとりと心に染み渡っていくようなもの。暑さだとか空腹だとか心配事だとか、そういう雑音を忘れてしまうほどに、僕の意識をすっぽりと包み込んでくれるもの。手に触れて心地よいことを手触りが良いと言うのなら、読んで心地よいことを目触りが良いと言いたい。目障りではなく、目触り。心に障らず、心に触れる。それが素敵な文章。

そういう文章には、きっと表現の巧拙とか文法の正確さとかは関係ない。大事なのは、心の一番深く、泉を写し取ること。底から溢れ出る何かを、どこまで純化して外に取り出せるか。それだけだ。

だから今回は、あれこれと文章を捏ねくり回すのはもうやめて、泉から出るものをなるべくそのままの形で言葉にしよう。

 

この文章を書いている今は10月10日の午前3時。ただ深夜の感傷だけが筆を走らせている。

スマホで書いてるんだから筆じゃなくて指だろ、と野暮なことを考えたりもした。

 

 

 

世界は不思議で満ちている、と常々思う。僕らの生活を一歩引いて見てみれば、日常は超常に溢れている。もし本当に神様が居て、こんな不思議だらけの世界をたった7日間で作り上げたのなら、奴は相当な変人に違いない。もう少し時間を掛けて慎重に作っても良かったんじゃないかと責めたくもなる。そうすれば、僕らももう少し不合理や不可解に悩まずに生きられたかもしれないのに。

多分この世界の不思議の数々は、せっかち過ぎる神様が創った巨大な作品群だ。軽率でどうしようもない奴の忘れ形見。そして、不思議はただ不思議であるというそれだけで、人の心を惹きつける。

 

 

空は僕らに最も身近な不思議のひとつだ。僕らはもうだいぶ生きたせいで見慣れてしまったけれど、もう特別に思うことも少なくなってしまったけれど、僕らの生きる世界の天井がこんなにも彩りを持っていて、しかも日によって時によって全く姿を変えてしまうものだなんて、まさに不思議としか言い様がない。朝方の空は透き通るような青、夕暮れは寂寥的な橙、夜はどこか支配的な黒。一日の中で空はこんなにも姿を変える。しかも空は雲っていうアクセサリーで自分を好きに着飾っていて、それもまた移動するし形も変わるから、もう意味がわからない。同じ川に二度入ることは出来ない、と昔の偉い人が言っていたけど、同じ空を見ることもまた、二度目は無いのだろう。

それにしても、どういう頭をしていたら、こんな奇想天外なものを思い付くのだろう。仮にあなたが世界創生前の神様で、この世界に住む生き物たちの天井は色が変わるものにしよう、だなんて言い出したら、僕はきっとびっくりしてしまう。まあ神様の頭の中はそれこそ人の身には語りえぬものなんだろうけど、案外せっかちな奴のことだから、何も考えずに数種類の絵の具の中から適当にスプーンで掬って空の色を決めたのかもしれない。神様の匙加減と、それを見る僕らの意識によって、空は色を与えられた。

 

 

 

 

僕らの天井は水を落とす。

人は詩や歌の中で雨を涙と表現することがしばしばある。「空の涙」だとか、「泣きだしそうな空」だとか。空は果たして泣くだろうか。

僕はたまに、雨は涙なんかよりもっとおぞましいものに思えることがある。空、天蓋、世界の天井。世界が泣くはずなんかない。だって苦しくて泣くのはいつだって僕らの方じゃないか。世界は苦しめる側であって泣く側ではない。そう、涙じゃないなら、きっと涎だ。雨は神様というやつが空から涎を垂らしているみたいだ。いつ食べてやろうかと僕らを見下ろしながら、口を開けてその時を待っている。散々苦しめて泣かせて、最後にぱくり。神様め、なんてやつだ。

 

そういえばどこかのバンドも神様を悪人だと歌っていたな。涎が降ったら傘を差そう。あまざらしにならないように。

 

 

 


ふと窓の外を見ると、だいぶ空が白んできた。すぐそこまで朝が来ている。夜の帳に覆われた僕ひとりだけの時間がもうすぐ終わる。世界はまたここから活気を取り戻すのだろう。僕は窓を開けて煙草を吸いながら、空を見上げた。綺麗な秋晴れの空だ。

口から吐いた煙草の煙が昇っていって空に溶ける。それを見て僕は、まるで煙が雲の一部になってしまったようだと思った。

 

今日の天気は、晴れときどき煙。

 

 

 

こと:事:異:言


例えば、とある組織が実験を行ったとする。これを"とある組織による実験"と名付けよう。実験対象はAくんとA´くんという2人の人間。この2人は身長や体重、顔といった外見、そして脳の構造までもが完全に一致したクローンとして生まれた。2人には別々の家族が居る。ただし、Aくんの家族もA’くんの家族もまた、容姿や思考が完全に同一のクローンである。この2人は別々の家で育てられ、成長過程でお互いが出会うことはない。2人は生まれた瞬間から大人になるまで、全く同じものを見、聞き、読み、食べ、同じ人間と会話をすることで肉体と精神を成熟させていった。さて、このようにして遺伝子から成長過程まで全てが同一に調整された2人には決定的に違う部分が1つだけ存在する。それは使用言語である。Aくんは日本語、A’くんは英語を母語として育てられた。2人が読む本、聞く音楽、見る映像、他人との会話、その内容は全て同じであるが、Aくんはそれらを日本語で行い、A’くんは英語で行った。時が流れ、やがて彼らは大人になった。

僕はここで1つの問いを見る。

「ではこの時、彼らの間に思考の差異は見られるだろうか。」

使用言語以外完全に一致する2人。彼らの頭の中では世界はどのように解釈され、そしてそこに違いは生まれるのだろうか…。

 

 

 前回の記事を書いてから僕はずっとそんなことを考えていた。というのも、僕は前回の記事で「人は言語によって思考する、という説を僕は支持している。」と高説垂れておきながらも、その実考えれば考えるほどそれは僕にとって素直に受け入れ難く腑に落ちないものになってしまったのだ。だから今回の記事ではそれについてもう少し掘り下げていきたいと思う。僕が知りたいことはただ一つ。

「人の頭の中では、言語と思考どちらが先行し、そのもう一方を規定しているのか。」

多分この命題は今まで幾人もの学者や研究者たちによって語り尽くされた話だと思うし、それこそ僕の頭の中では取り扱い切れないほどに難儀なものだとも思う。現に僕の頭の中では既にあれでもないこれでもないといった色々な考えが傍若無人に飛び回っていて、軽く錯乱状態にある。まるで脳内会議に円卓を囲んだいくつもの「考え」さん達が、我こそが正しいのだと自分の正当性を激しく主張し合い、しかも議長であるところの僕はそれらが全部正しく聞こえるもんだからなお困ってしまうような…。まさに会議は踊る、されどなんとやら。そしてこの記事を書いている今もそれは収拾が着いていないので、とりあえず今回は順序立てて作文するよりも、僕が考えたことをそのまま抽出して書き出していきたいと思う。当たり前だけど僕は学者でも何でもないただの一般人なのでそれらには何の学術的根拠もないし、いくらでも反駁しようのあるものだろう。もしくはとっくに先人によって語り尽くされたことかもしれない。それでも自分で考えることに意味があるのだと己に言い聞かせて、少し書いてみることにしよう。

まあ、床に取り散らかったページを拾い上げるだけでは、それは物語にはならないのだけども。

 

そうであれば良いなぁ

まずそもそも僕がこんなことを考え出したきっかけとして、言語が思考を規定していたら面白いなぁ、そうであって欲しいなぁ、その方が良いのになぁ、という自身のおかしな希望がある。なんと言えばいいか、人類史上最大の発明にして文明興隆の原初であるところの言語が、ただの意思コミュニケーションツールごときの範疇に収まって欲しくないというか、もっと不思議な特質が備わっているんだと考えた方がわくわくするというか…。そう、僕は言語がもっと特別な何かであって欲しい。

きっと人は現実を言語というフィルターを通して認識している。言語が異なれば、果たして世界の捉え方も異なるだろう。同じ言語話者の間であっても、人によって頭に蓄積されている言語のデータは異なるのだから、また違う現実がそこにはあるのかもしれない。世界は1つではなく、人の数だけ存在する。世界は無限に拡散している…。ふふふ。なんだか面白くなってきたなぁ。と、ここまで考えたところで少し調べてみると、これとよく似た考えは「サピア=ウォーフの仮説」という説によってとっくに世に出ていたらしい。やれやれ。

 

 

 

とある組織による実験

じゃあそれをどうやって証明すれば良いのだろう。人の認識、思考、解釈、それらは言語が担っているのだとどうすれば断定できるのか。

サピア=ウォーフについて少し調べていたら、気になるページを見つけた。

使う言語が「世界の見え方」を決めている:研究結果|WIRED.jp

研究を行ったランカスター大学の言語学者、パノス・アサナソプロスは、被験者に、自動車の方向へと歩いている人物の動画を見せた。その様子を言葉で描写させたところ、英語を母国語とする人の多くは「人が歩いている」動画だと答えたのに対し、ドイツ語を母国語とする人の多くは「自動車に向かって歩いている人」の動画だと答えたのである。

つまり、ドイツ語を母国語とする人は、人物の行為だけでなくその目的も一緒に描写する傾向があるのだ。なぜなら彼らの言語は、出来事を全体において考察する、全体論的観点をもつ言語だからである。これに対して、英語を話す人は、行為そのものだけに注意を集中させる傾向を持っているようだ。

 

なるほど。

でも、これだけではその認識の差異が言語によるものだと断言出来ないような気もする。だって英語話者とドイツ語話者の間にあるのは言語の違いだけでなく、きっと受けてきた教育も文化的歴史的背景も社会のあり方も食べてきた物もよく聞く音楽もよく読む本も、何もかもが違うのだから。それだけの異なる経験がありながら、どうして彼らの思考の差異が言語の違いによるものだと断定できるのだろうか。もしかしたらドイツ人は「人物の行為だけでなくその目的も一緒に描写する」ことにより重きを置かれた教育を受けてきたのかもしれない。対照実験をするには異なる要因が多すぎる。

そう、だから"とある組織による実験"が必要なのだ。概要は記事の冒頭に記した通り。脳の構造、教育、経験、環境、その全てが同一であり、そして言語のみが異なる2人ならば、それはきっと対照実験としての意味を持つ。言語と思考の関係を解き明かすには、究極的にはこの方法しかないんじゃないかな。

でも、そうだよね。もちろんこの実験は実現し得ない。だからこれは例えばの話。理想気体ならぬ理想実験。そういうものだと思って欲しい。

 

 

 

問いへの答え

さて、ではこの実験の問いへの答えだけど、結論から言うと僕は差異は生まれると思う。思うというよりは、"そんな気がする"程度だけども。

日本語には「時が流れる」という言葉がある。時間には流れがあるらしい。明日、来週、来年…。僕らはそういう先の未来を想起する。しかし、未来はいつまでも"未だ来ず"のままではいられない。それは現在になり、いずれ過去になる。まさに川の流れにのっているように。遠い未来だったはずの事物はいつか現在となり、やがて過去になり、そしてさらに遠ざかっていく。僕らは時間をそういうものだと暗黙のうちに了解している。そういう流れの中に僕らは生きているのだと。しかし、その了解は当たり前のものでは無いかもしれない。

僕らが時間に流れのイメージを見て取るのは、日本語という言語がそうだからかもしれない。僕らが時間に流れの意識を獲得したのはいつだっただろう。恐らく覚えている人は居ないだろうけど、僕はそれは言葉を使い始めた瞬間だと思う。大人たちから「時が流れる」という言葉を聞いた時、本で読んだ時、そして自ら使い始めた時、初めて僕らは時間に流れを認めた。「時が流れる」を日常的に使う中で、時という概念の解釈は脳に蓄積されていった。僕らは日本語によって時を知ったのだ。つまり、僕らの時間に対する認識は、たまたま使用言語が日本語だったからに過ぎない。だから、もし仮に日本語での「時の流れ」という言葉に相当する表現が無い言語を使う人達は、時という概念に関して僕らとは全く異なる認識をしていることだってありうる。時には流れなんてものはなく、未来も過去もなくただ現在のみがあるのだと、そういう現実に生きる人達だっているかもしれない。

話は少し変わるけれど、英語には「Time flies.」という表現がある。日本語ではふつう時は飛ばない。でも、彼らの言語では飛ぶものらしい。彼らはそういう現実を持っている。日本人の時が流れるものであるように。

ということで、このように概念の認識が言語によって変わるのならば、やはりAくんとA'くんの間には差異が生まれるのだろう。2人は違う現実を見ている。

 

 

いや、でも…

という所までが、前回の記事を書いた時までに考えていた話。"でもよくよく考えるとそんなことは無いのかもしれない"と考え始めたのが、ここからの話。

僕はさっき「時が流れる」の例を出して言語が概念の解釈に影響を及ぼしている可能性を述べたけど、実はこれは論としてはとても脆い。

「エモい」という言葉をご存知だろうか。最近になって漸く市民権を得てきた言葉だけれど、じゃあこの言葉ができる前、僕らの心には「エモい」に相当するような感情の動きや気持ちが無かったのだろうか。「エモい」という言葉が作り出されたと同時に、僕らの心の中にも「エモい」が生まれたのだろうか。きっとそうでは無いだろう。多分僕らは古くから心の中に「エモい」という感情を持っていて、だけどその複雑で名状しがたいそれを的確に言い表せる言葉を持ち合わせていなかった。だから誰かがその感情に名前を付けて、それが「エモい」になった。つまり、先に感情(現実)があってそれを表象するために後から言葉が出来た、と。これは「時が流れる」の話にも言えることで、時間には未来と現在と過去があってそれが移ろいで行くものだ、という認識が昔から日本人にはあって、「時が流れる」はそのイメージを最もよく表せる言葉として作られただけに過ぎない。僕らがこの表現を使うのは、日本人が元々時は流れるものだと考える民族だからだ。言うなれば、「時が流れる」ので時が流れているのではなく、時が流れているので「時が流れる」のだ。なんだかトートロジーじみてきたなぁ。ちょっと違うけど。

だからまあ、現実は言語に先行している。当たり前と言えば当たり前の話。

 

余談だけど、「時が流れる」という表現は日本語に限らず、英語にもフランス語にも、他の多くの言語に存在する。どの時代どの地域どの文化にあっても、時には流れが認められているみたい。ユング集合的無意識…。そういう何かがあるのかもしれない。

 

 

 

チンパンジー

この話は簡単。チンパンジーは恐らく言語を持ち合わせていない。でも確実に思考している。つまり言語がなくとも思考はできる。終わり。

 

 

ポテチを食べる

そもそも"僕は言語によって思考している"という感覚はどこから来るのだろうか。その根拠として一番大きいのは、僕らは考えるとき脳内で思考を文章化しているところだろう。

前回の記事で挙げた例をもう一度出そう。

「あなたが今僕の文章を読んで何を考えたかを考えて下さい。」

この時、恐らくあなたは「長ったらしい文章だなあ」とか「そんなことよりラーメン食べたいなあ」とか、まあとにかく何かしらを頭の中で文章にしたと思う。そこに言語が用いられているのだから、やはり思考は言語によって行われているように思われる。しかし実はこれも誤りかもしれない。

こうは考えられないだろうか。実は僕らは脳内での文章化より前に"思考"していて、その内容が0.00001秒後に言語に翻訳され、僕らの意識上にはその文章化された部分しか浮かんでこない、と。うーん何言ってるかさっぱり分からない。これは僕がフラフラと近所の神社を散歩していた時にふと思い付いたもので、自分でも上手く整理できていないから文字に起こすのは尚更骨が折れる。ので、ちょっと図の力を借りることにした。

 


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何かについて考える時、僕らは頭の中で文章を作っている。ところが、これは思考というプロセスにおいては二次的なもので、実はその前の段階として"本物の思考"なるもの(便宜上僕が勝手にそう呼んでるだけ)が存在する。僕らが本当の意味で"考えている"のはこの部分で、文章として僕らの頭の中に知覚できるものはそれが言語に翻訳された副次物に過ぎない。ただこの翻訳の行程は"本物の思考"と限りなく同時に行われるので、僕らは文章化されたものを思考そのものだと思ってしまう。例えば「音楽は芸術である」と考えた時、そう考えたと思っている0.00001秒前にまず頭の中で"本物の思考"が行われていて、「音楽=芸術」という決定がなされる。次に言語における単語や文法などを適用して「音楽は芸術である」という文章がほぼ同時に作られる。そうやって最終的に出来上がった文章を僕らは思考として知覚しているのだ。つまり、思考は言語によって知覚されているだけで、言語によって為されているわけではない。だから、チンパンジーは思考とそれに基づいた行動は出来るが自分が何をどう思考しているかは自覚できない。上手く伝わってるかなぁ。

僕がこう考える根拠が一つあって、例えば、自分の部屋にいるあなたはお腹が空いたのでリビングにあるポテチを食べようと思ったとしよう。あなたは体を起こして部屋のドアを開け、リビングに入るとポテチを手に取り、袋を開けて中身を口に入れた。この一連の動作の中で、あなたはなにか思考を文章化するだろうか。ドアを開ける時「このドアを開けてリビングに入らなければポテチは手に取れない」だとか、ポテチを食べる時「ポテチの袋を開けないと中身を取り出せないのだ」だとかいちいち思っただろうか。恐らく思わないだろう。僕らは世界平和について思いを巡らせながらドアを開けているし、ポテチの袋を開ける時あなたは明日の大事な試験のことばかり考えている。

僕らが無意識的に行っている行動は、"本物の思考"により実行されているが、言語に翻訳する行程がすっぽりと抜け落ちているので知覚されていないのではないだろうか。当然人は考えなければ何も行動出来ないので、ドアにしてもポテチの袋にしても、動作一つ一つには確かに思考が行われている。「ドアノブに手をかけて捻り、手前に引くことで…」と。しかしこれらの思考はわざわざ文章化するほどのことではないから意識上には浮かんでこない。翻訳は省略ができる。むしろ、言語に翻訳する行程を省くことによって、僕らは無意識的に何かをすることが出来ると言える。ドアとポテチを目の前にして、いちいち「これを開けなければ…」とか言葉にしていたら疲れてしょうがない。というか、僕らの日常での行動のほとんどは意識されない思考によるものだろう。頭の中で言語化して考えるのは、よっぽど関心を引くものか複雑なものか、そういう類のものだ。

少し長くなったのでまとめると、"本物の思考"が言語に翻訳されたものを、僕らは思考として知覚している。ただし、翻訳は必須の行程ではなくて、意識上に浮かばない思考もある。ということである。「自分でも気付かずに○○していた」という体験は、僕らにとってとてもありふれたものだ。

 

 

 

 

全てではないけれど、以上が僕の考えたことのだいたいだ。

 

結局、元の問い「人の頭の中では、言語と思考どちらが先行し、そのもう一方を規定しているのか。」について答えを出すなら、「言語は思考を規定しないが、影響を与える可能性は十分にある」くらいに留めておくのが丁度いいだろう。言語は僕らが取り扱う思考や現実の中にあって、そしてとても重要な役割を持っていることは間違いない。言語がもっと特別な何かであってほしいという願望から始まった堂々巡りは、当初の予想とは違う形ではあったけれど、言語を特別なものにしてくれた。

 

 

 

僕らは言葉の力に頼らなければ、自身が何を考えているかでさえ知りえない。よく「他人が本当は何を考えているかなんて分からない」と言うけれど、それは自分自身だってそうだ。言語が自分の思考全てを形にしてくれているとは限らないのだから。逆に言えば、言葉を覚え、学び、使うことで、僕らはより僕ら自身を知ることが出来る。僕がこれから知る言葉は僕自身だ。言葉が自分を教えてくれる。人の言語の真価はきっとそこにある。

 

 

僕は言葉が好きだ。

今そう考えたことを、僕は言葉によって知った。

 

 

 

ブログを始めることにした

ブログを始めることにした。といってもこういったことをするのは初めてで、いかんせん何を書いたらいいのか定まらない。そもそも自分の文章を書くというのも、大学のレポートすら極力書かないで済むように生きている僕にとっては中々経験が少なく難しい。せいぜいツイッターで思ったことを140字に収めて書くくらいで、それすらも最近はなんだか憚られるように感じていた。推敲という言葉は僕の人生では常に黒いシーツの下に覆われている。じゃあ尚更ブログなんて書く必要性も理由も無いように思われるかもしれないけども、それでも僕は始めることにした。子どもの頃からとにかく飽きっぽくて、3日坊主どころかやろうと決めたその日のうちに何をやろうとしたのか忘れてしまう0日坊主だった点だけが心配である。大丈夫かな。


僕はここ1年で色々なことを考えるようになった。というよりも、考えることを放棄しながら生きてきた僕が、ようやく人並みに何かを考え始めたといってもいい。世界のこと、社会のこと、他人のこと、人生のこと、「私」のこと、心の在り方のこと、そして、それらの終わらせ方のこと。特にここ数ヶ月はどうにも精神的に参っていたので、そうした「考え」により多くの時間が費やされるようになった。

人は言語によって思考する、という説を僕は支持している。明日はこんな1日になるだろう、僕はもっとこうするべきだ、目的を達成するにはこうすればいいだろう、といった脳内の全ての作用は言語のもとに行われている。言語は単なる人対人のコミュニケーションツールという枠組みを超越し、人が人足るべき要素として脳内に悠然と君臨している。もちろんこれには反対意見もあって、例えば言語を習得する前の赤ん坊は思考をしていないことになるのか、とか、思考は脳内で何物にも依らず行われるもので言語はそれを外に表象するツールに過ぎない、とか。でも僕はやっぱり思う。思考には言語が必要だと。「私はあれが好き、嫌い。私はあれが良いと思う。悪いと思う。私はあれが美しいと思う。醜いと思う。」こうした、思考というより感情に近いような価値判断には言語を要さないが、「お金を稼ぐためにはどうしたら良いか。あの人と仲良くするためには。これとあれどちらが良いだろうか。」といった、より高度な、というより日常レベルの思考には言語が絶対に欠かせないのではないかと。
例えばあなたが今僕の文章を読んで何を考えたかを考えて下さい。


考えましたか?


では、今その思考に言語を用いていませんか?
とか。


なんだかごちゃごちゃしてきたけれど、何故こんな話をしているかというと、僕はここ最近の自分の思考が上手く言語化出来ていないようなモヤモヤを抱えているからである。思考は言語によって行われるのにそれが言語化出来ていないというのはおかしなパラドックスを感じるかもしれないが、とにかくわけも分からずモヤモヤしているのである。ああ思ったりこう思ったりしながら自分なりの結論を出したはずなのに、それは紛れもなく自分の思考のはずなのに、上手くその輪郭が掴めない。まるで頭の中で泥水に沈んでいるかのように見通せない。言語を要するはずの思考が言語化出来ないなんて、それは本当に思考と呼べるのか?僕はパラドックスを解消したい。だからブログを書くことにした。頭の中の事態を文字に書き起こして、目に見える形に留める。単語を選択し、文法を適用し、文脈を整序する。そうやって泥水から掬い出してやることで、僕は自分の思考が思考として成立していると自認したいのである。自分の恥ずかしい恥ずかしい頭の中を、人様の目に付いても大丈夫なように目いっぱいおめかししてやる。その練習をこれからしていきたいと思う。そして最終的な目標は、最初に述べたような世界のこととか「私」のこととか人生のこととか、そういう全ての「考え」を棄却して「問い」から解放されることだったりする。このこともいつかちゃんと書き起こせたら良いなと思う。

ここまで書いてきて頭の中を言葉にするのはやっぱり大変だなと思った。
正直ちゃんと続けられるかは分からない。
でもこうして一応文章を書き終えられたところを見ると、どうやら0日坊主からは卒業出来たようである。黒いシーツをぺらりとめくって。