消灯部屋

ショートヘアー

煙草

 

 

ぷかぷかと浮いている。でも、どこに浮いているのかは分からない。多分、海か砂漠。

浮き足立っている。確かな足場がなく不安定だ。ぐらぐらと揺れている。

自分の体にぴったりとハマる空気が欲しい。身体のどこか一部が世間からはみ出していて、それでいてどこか一部が欠けているような気がする。

 

 

今の僕を俯瞰視するならそんな感じ。何かモヤモヤとした陰を背後に感じながらも、その実体を未だ掴めずにいます。

 

僕とは何者であるのか。わたしとは何か。

大人とはなんだろうか。

 

ある時期、僕はとにかく"あなたはこういう人間ですよ"と規定してくれる何かが欲しかった。僕は僕自身によって僕を定めることは出来なかった。だから、別のモノにそれを期待するしかなかった。

 

煙草はそのための道具の一つだった。

 

オトナって何さ。20歳になったらオトナなのかな。19歳364日と、20歳1日にはどんな違いがあるのかな。その時計の針が0時を指した瞬間に、僕の身体はオトナになったのか。社会は、ある一定の時間経過を経験した肉体の持ち主を、ただルールに従って大人と呼んでいる。

ありがとうね、僕を大人と認めてくれて。でも、僕はちっともオトナになれた気がしないよ。

 

20年が過ぎたのだから、お前も早く大人になれ。何だかな、社会に強迫されているような、強要されているような。

けれど、何よりも僕を責め立てていたのは、僕の自意識だった。

僕は早く大人にならなければならないんだよ、何故なら、、何故なら。何故なら、何だよ?自分でも分かってないくせにな。

 

 

だから、煙草が必要だった。

煙草は最も身近で手軽な、オトナを感じられる代物なんだ。

インスタントなオトナアイテム。それが煙草です。

 

火を付けて吸って、煙を吐いて、ちょっと気持ちよくなって。なんだかすごくオトナみたいだなぁ。煙草を吸っているのだから、僕はきっと大人だろう。周りから見て、誰も僕を子供だとは思うまい。なんならちょっとカッコイイかもしれない。

 

若者が煙草を吸い始める理由なんてそんなものでしょう。みんながみんな、何かに憧れているんだ。20歳付近という自分が何者かも分かっていない時期に、煙草はそれだけで自分を担保してくれるような素敵なものに見える。

 

僕は、大学生で、黒髪で、東京に住んでいて、サブカルが好きで、面倒臭がりで、飽きっぽくて、運動が苦手で、秋が好きで、バイクに乗っていて、お酒はそんなに飲めなくて、あ、あとそれと、煙草を吸っています。

僕という人間を記述する項目が、煙草を吸うだけで一つ増えました。それだけで、少し足元のぐらぐらが和らいだような気がしてくる。

煙草を吸っているわたし。僕は、わたしを記述する文章が一文でも増えたらいいなと思うから、煙草を吸うのかな。

 

それともう1つ、煙草は本当の僕を隠してくれる気がする。煙草のにおいが僕のにおいを上塗りするように、"煙草を吸うわたし"は本当の僕の顔に仮面を被せてくれる。本当の自分を晒すのは怖いことだからさ。"煙草を吸うわたし"を外に立てることで、安心していたいのだろうな。何から身を守っているのかと言われれば、分からないのですが。

 

煙草はインスタントなオトナアイテムです。

煙草はわたしを記述します。

煙草は煙で僕を包み隠します。

 

でも、健康に悪いから、程々にしないとね。

 

僕は、ぷかぷかと浮きながら、ぷかぷかと煙草を吸っています。

 

 

あなたもどうですか

 

 

とても恵まれた世界に生まれたと思う。

身近に人が死ぬことなんて滅多にないし、とりあえずバイトでもしてれば食うには困らない。誰もが幼い頃から道徳を教え込まれ、他人と協調して生きていくことが何よりの美徳と信じて生きている。みんながみんなを想いやって、困っている人が居れば助けるし、困っていたらきっと誰かが助けてくれる。健康に生きていくことを第一とする、生命至上主義全盛の時代。秩序万歳。博愛万歳。生命万歳。なんて生きやすい世界なんだろう。ほとんどの人は自分が明日死ぬかもしれないなんて微塵も思わない。生存していること、自分が明日も存在していることは全くもって当たり前だ。

今の社会では、人の死は限りなく希釈されて、ほとんど目の届かないところに追いやられている。大抵の人は病院で命を終える。その白い箱の中に秘匿されたまま、人の死はひっそりと流れていく。小学生の頃、下校の帰り道にいつも挨拶してくれた近所のおばあちゃんが、どこでどうやって死んだのかを僕は知らない。そういえばもうずっと見てないなと気付いたのもこの前のことで、僕はそこでようやくあの人がいつの間にか死んでいたことに気が付いた。あの人が死んだことを知らないまま、僕はこの10年間近くをのうのうと生きていた。

まあ、そうやって徹底的に人の死に目隠しをする社会のおかげで、僕らは自分自身が死ぬことすらすっかり忘れて生きることができている。これはいいことだと思う。少なくとも、日常に死が溢れていて、自身の死にびくびくと怯えながら過ごす生よりも、死を忘れてしまった生の方がよっぽどいい。ニュースで聞くどこかの誰かの死は、もはやただの情報でしかない。死亡事故を目撃してしまったとか、家族や知人が亡くならない限り、僕らは死を見ることがないまま安寧に埋もれて生きていられる。

なんて生きやすい世界なんだろう。

 

 

だから、こんなにも簡単に生きられる世界なのに、自ら命を絶つ人間が居るだなんて信じられない。せっかく死ななくて済む環境にあるのに、自ら死のうとする奴がいるなんて。

 

僕は昔、自殺なんてとてつもなく視野偏狭な人間のすることだと思っていた。学校でいじめられて飛び降りだとか、仕事が嫌になって電車に飛び込みだとか、人間関係に疲れて首吊りだとか。だってそんなもの、解決法はハッキリしているじゃないか。いじめられているなら転校すれば良いし、仕事が嫌なら辞めれば良い。人間関係だっていくらでも新しく作れる。死ぬほど嫌になる前に、死なない程度にやってみればいいのに。だから、そういう人たちはきっと視野がとても狭くなってしまっていて、特に若者の自殺なんかは、学校とか会社とかそういう今見えている閉鎖的な世界をこの世界全てだと錯覚してしまっているから、それに絶望した時自殺するしかなくなってしまうんだろう。この世にはいくらだって生き方があるのに。まだ見たことない景色も会ったことのない人も知らない生き方もたくさんあるというのに、今見えているものだけで自分自身を裁判にかけるのは間違っている。蛙が海の広さを知らないまま井の暗闇に溺れてしまうのは、とても可哀想なことだ。

 

僕は昔、そう思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

そして、そう思っていたはずの僕自身がそうなってしまっていることに気が付いたのは、今から1年前のことだった。

 

鬱になって知った一つの事実は、僕が昔"そう思っていた"ことは全くの誤りだったということ。僕は根本的な勘違いをしていた。彼らがどうして死を選んだのか、について。彼らが本当に憎んでいたのは学校でも仕事でも人間関係でもなかった。彼らが本当に恨んでいたのは世界ではなかった。

彼らが本当に絶望していたのは、誰でもない自分自身だった。際限のない自己嫌悪。自分の在り方を肯定出来ない疾患。出口のない自己否定の毎日。その果てに自殺はあった。

 

多分、きっかけは人によって違う。それは学校であったり、仕事であったり、人間関係であったり、家庭環境であったり、寂しさであったり、貧乏であったり、容姿であったり、病気であったり。変えたい辛い現状があり、叶えたい理想があり、それでも何も良くならない現実に苛まれて、僕らの視野はどんどん狭く偏っていく。理想と現実の板挟みに押し潰されている内に、最初は自分を苦しめる外界に向いていた憎悪の心は、次第に自分自身に向いていく。「勉強が出来ないのは私の頭が悪いから。仕事が上手くいかないのは私が無能だから。人と上手く関われないのは私が醜いから。私は駄目な人間だ。私は他人より劣っている──」多分、きっかけは人によって違う。でも、行き着く先は皆同じだ。僕らは自分を嫌わずにはいられない。

まるで底の見えない深い深い穴に落ちてしまったみたいだった。そこは真っ暗でじめじめしていて、自分の心を壊すには絶好の場所だった。いつか落下を終えて底にぶち当たった時、この肉体も弾けてしまうのだろう。

 

僕には分からない。自分を肯定する方法を完全に見失った人はどうやって生きていけばいいのだろう。世界で一番嫌いな人間が自分自身になってしまった人はどうすればいいのだろう。視野が狭い?まだ知らない生き方だってたくさんある?環境を変えてみればいい?うるせえよ。そんなことは最初から知っている。でも、いくら新しい環境に身を置いたところで、結局そこにいるのは私じゃないか。どれほど視野を広く持とうとしても、私が世界一嫌いな私のままなのだから意味が無い。学校を変えても、仕事を辞めても、自分を苦しめる外界を全て遮断しても、この人生を歩んでいくのは結局この醜い私だ。もう生きていたって私が私である限り駄目なんだ。自分の将来にどれだけ想像力を働かせても、どこかで私という壁にぶち当たる。この先どんなに新しい広い世界が待っていようと、それを経験する主体はこの劣った私なのだから、何もかも上手くいくはずがない。人生の主人公は自分だとかよく聞くけれど、その主人公がどうしようもない奴だったら、物語が面白くなるはずもないだろうに。もうそうなったらきっと終わりだ。自分を肯定する方法を完全に見失った人間の行く道は一本しかない。世界で一番嫌いな人間を殺すしかない。

井戸の中の蛙は、広い海を知りながらも、水面に映る自分の醜さに絶望してしまった。

 

 

 

人は自分の誕生日を選ぶことが出来ない。人生は本人の意思と努力によって如何様にも変えられるとして、けれど唯一自分の意思によらず勝手に決定されてしまうものが誕生日だ。僕の人生は僕のものなのに、それがいつ始まるかについては僕の意思は一切関われない。僕の人生は気付いた時にはもう始まっていた。勝手に始めさせられていた。どうして僕に決めさせてくれなかったの、と時々思う。そんな風だから、僕は昔から誕生日を祝われることにも祝うことにも大して興味を持てなかった。誕生日なんてたまたまそうなっただけの日でしかないのに。

でも命日は違う。僕らは誕生日を決めることは出来なくとも、命日を決めることは出来る。人生をいつ始めるか選べなくとも、いつ終わらせるかは選ぶことが出来る。それは、勝手に人生を始めさせられた僕らに残された最大で最後の意思決定権だ。私はこうやって生きてきてこうやって死ぬんだぞっていう、人生最後の表明かもしれない。そこにあるのは紛れもない自分の意思だ。

だから自殺者は決断者だったと思う。彼らは自分の意思で決めた人たちだ。ぬるい生活に浸ってただ漫然と寿命を消費しているだけの僕らより、よっぽど自分の生と向き合った人たちだ。例えそれが悲しく辛い決断だったとしても、彼らが命と真正面から向き合った事実だけは揺るがない。彼らは全て自分で決めた。まさに自決だった。

けれど社会はそれを認めない。どれだけ力を振り絞って出した決断だったとしても、社会は自殺を許容しない。あなたの人生はあなたが決めるものですよ、という体のいい言葉で取り繕っているくせに、その物語の終わり方は選ばせない。もし本当に人生が本人の意思に委ねられているのなら、その終わり方だって本人が決めていいはずだ。その行為も"生き方を自分の意思で選ぶ"という選択の一つのあり方だ。なのに、社会はまるで1秒でもより長く生きることこそが正義だと言わんばかりに生命至上主義を振りかざして、自殺に悪のレッテルを貼り付ける。そんなのもうただの傲慢じゃないか。人生にどれほどの価値と意味があるのかを定めるのは本人であって社会じゃない。生きていればいい事もありますよだとか、そんな棘の生えた善意で縛り付けるのはやめろ。

 

だから、"死にたいのなら死ねばいい"と思う。これは誰かを突き放す悪意の言葉ではない。本当に死にたいと思っているのなら、そうするのが一番なんだ。自分の意思でそう決めたのなら、誰も口は出せないよ。そういう意味で、これは真の善意の言葉だ。

僕は"自分が死んだら誰かが悲しむかもしれない"という感情は本当に無意味なものだと思う。誰かが悲しむことは生きている私にとって関係のあることであって、死んだ後の私には一切関係ない。そもそも死んだ後に私は存在しない。死んだら何もかもが無くなるというのに、それとも「誰かが悲しんでいることを悲しむ私の心」だけは死後も存在するかもしれないと思っているのだろうか。たとえ親や友人が泣いていようが、その光景を見る目も聞く耳も考える頭も、死者のあなたは持ち合わせていないよ。全部自分で捨てたんだから。

僕らは私の世界に生きている。実在の世界に溢れている様々な事物のうち、私の知覚出来るものだけが現実として私の世界に現れる。逆に言えば私が知覚しえないものは存在しないのと同じだ。死んだら意識も感覚も消失するのだから、それと同時に私の世界も終わりを迎える。そこに自分の死を悲しむ誰かは居ない。

 

だから、"死にたいのなら死ねばいい"と思う。

もしよければ、あなたもどうですか。

なんてね。悪趣味にも程がある。

 

 

 

 

 

でも、僕は本当に死にたいのかな。心の奥底からそう思っているのかな。僕は本当の意味での"死ぬ"ということを知らない。恵まれた世界で幸運な人生を送ってきた僕は本物の死を見たことがない。僕が今まで見てきた死は画面の中の情報化された贋物だ。それはただの記号であって経験じゃない。それは僕に実感を与えてはくれない。だから確かめようと思った。社会が生活から人の死を徹底的に遠ざけて目隠しをしているのなら、自身で確かめに行くしかない。もしそれで、より濃密な心身の実感として死を知ることが出来たなら、僕の心は変わるだろうか。

だから僕は死ねるかどうかを試そうと思った。本当に飛び降りられるかどうかを試したかった。こう書くと僕は自殺しようとしたのだと思われるかもしれないけど、それは僕の真意じゃない。むしろ逆で、僕は生きるためにそうした。もしこれで本当に飛び降りることが出来たなら、それは僕が本心から死にたいと思っていたからだろう。そうなったらそれはそれで良い。でももし、もし何かが僕を引き止めたなら、僕の中の何かがこの体から死を遠ざけようとしたのなら、多分僕はまだ死ぬ時じゃない。僕という存在の全てが死を望んでいるわけじゃない。それが分かったら、僕は少しでも生きようと思えるはずだ。だからこれは生きるための積極的試行だ。そこで終わるものよりそこから始まることに希望を乗せている。どうなるかはやってみないと分からない。

そんなことを考えながら、僕はバイクを走らせた。どこかの県のどこかの山に着いた。青々とした緑の絨毯を二つに切り分けるように、幅の広い川が流れている。その川を跨ぐこれまた大きな橋が、分断された緑の端と端をその身一つで繋いでいた。綺麗な景色だと思った。自然は不思議な静謐さを持っている。僕はそれがたまらなく好きだ。街では人と物と情報が眠り方を忘れたまま動き続けていて、僕らはその喧しさに疲れてしまう。でもここにあるもの、川や木々や石っころたちは、そこにあるのがそのまま彼らの生き方で、忙しさを知らない。ここでは時計の針も随分のんびり屋だ。

まあこの川が三途の川にならなければいいけど、とか思いながら、僕は橋の欄干から身を乗り出して下を覗いた。高い。川は浅く水が衝撃を和らげることもないだろうから、多分即死だろう。平日の朝ということもあって、周りには誰もいない。僕は深呼吸をしてから、欄干の上に立った。目を閉じる。たった一歩だ。ただ一歩踏み出すだけでいい。足を前に出すなんて、小さな子供でもできる。たったそれだけの動作で全ては完了する。

何も難しいことはない。考える必要もない。この世界は不条理なことだらけで、そこから脱しようとするのはおかしいことじゃない。自殺が悪という認識は社会が勝手に押し付けた倫理観であって、それに従わなくたって構わない。僕が死んだら悲しむかもしれない誰かも、死んだ僕にとっては関係ない。今、僕を諫止するものは何もない。躊躇う理由なんてない。ない、ない、ない…。たくさんの否定がその一歩を肯定する。なのに。なのに、僕は前に踏み出すことが出来なかった。

ただひたすらに怖かった。恐怖が僕の全部を支配して窒息してしまいそうだった。底に打ち付けられてぐちゃぐちゃになった自分の胴体、ぱっくりと割れた頭、ありえない方向にひん曲がった手足。数秒後にそうなるであろう自分の姿がイメージとして浮かび上がった時、僕はそれを拒絶する以外に何も出来なかった。自分という存在の連続性が途切れてしまうことに対する説明不能な恐怖。そう、死の恐怖は説明不能だ。意味不明で理解不能だ。分かるのは、この感情はきっと真っ暗で真っ黒だということだけだ。中を見透すことは出来ない。

そんなわけで、結構凹みながらバイクで帰りました。僕の絶望は死に至る病にはなれなかったみたいですよ。

 

死ぬのが怖い、という誰でも知ってる当たり前を、僕はあんな山奥まで行ってようやく知ったのだった。いや、今思うと、本当は最初から知っていたくせにずっと見ないふりをしていたんだと思う。自殺が意思決定だとか決断だとかは、自分を正当化するためだけに作られた欺瞞に過ぎなかった。そんな理論にも満たない空論は、眼前にある死の恐怖ただそれだけで簡単に砕け散ってしまった。笑うしかないな。自分が死ねないと分かれば少しは生に前向きになれるかと思っていたけれど、実際に得られたものは死の恐怖だけだった。僕を引き止めたものは真っ暗で真っ黒な何かだ。僕はその恐ろしさに足が竦んで何も出来なかった。でもこんなのは生きる理由にはならないだろう。だって、"死にたくない"と"生きたい"は同義じゃない。そんなの誰でも知っている。誰でも知っていて、そして何よりも厄介な事実かもしれない。人間って面倒くさいね。"死にたくない"と思いつつ"生きたくない"とも思っている。この二つの感情は、辞書の中では相反するものだけど、人の心の中では共存しうる。厄介だなあ。

 

 

 

 

 

まあとにかく、僕は生きなきゃいけないらしい。"生きたくない"と"死にたくない"を天秤に掛けて、そして"死にたくない"が勝ってしまったわけで。その事実がある以上、なんとか生き方を探さなきゃないけない。だってこのままじゃ、僕は死の恐怖によって生かされているだけみたいじゃないか。死にたいのに死ねないから生きているというのは、死ぬことそれ自体より辛く悲しいことのように思える。人が生きるのはただ死の先延ばしなのか?そうじゃないだろ…。いや、なんの根拠もないけれど、そうじゃないんだと僕は思いたい。だから僕らは考えなきゃいけない。人生のこと、世界のこと、生き方のこと、私自身のことについて。

たまたま誕生日に生まれてきただけの僕ら。でも、その誕生が偶然なら、そこから先を生きる意味はやっぱり自分で決めなきゃいけないんだと思う。

 

 

私は何の為に生きているんだろう、と考えることは誰しもが経験する人生の通過儀礼だけど、それに明確な答えを出せる人はとても少ない。僕は人生の理由、というか目的は二通りあると思っていて、一つは"死の恐怖を克服して死ぬこと"、もう一つは"幸福に生きること"だ。そもそも人生に意味も価値もなくて嫌なことばかりなら、生き方を模索するより死の恐怖を克服してさっさと死んでしまった方が賢い、というのが前者の考えだけど、ご存知その計画はすっかり頓挫してしまった。なので、やはり後者について考えなきゃいけないみたい。

"幸福に生きること"、多分これが人生の究極的な目的だと思う。誰しもが、生まれたその瞬間から幸福を求めて生きている。幸せになりたくない人なんて居ない。多分。それにしても幸福ってなんだろうね。幸福を目で見ることも手で触れることも出来ないのは、それが言語上の概念でしかないからだ。幸福は人間の五感が治める領域には転がっていない。せめて鼻で嗅ぐことくらいは出来たら良かったのに。私にとっての幸福とは何だろう。どうやったら幸せになれるんだろう。考えても考えても答えは出ない。余りにもよく分からなすぎて、時には実在しない幻想のように思えてくる。幸福の問題は、そもそも答えがあるかも分からない問いであり、けれど数学のような「解なし」での決着を許さない。

とりあえず、ここでは幸福の如何を明晰に説くのは宗教と哲学にお任せしておいて、今僕が言えることは一つしかない。「少なくとも、幸福について考えている時間は幸福ではない」ということだけ。

例えば僕らは、小学生の頃将来に不安を抱くことなんてほとんど無かった。未来について深刻に考え悩むことなんてなかった。何故なら、その必要がなかったからだ。自分の生活が周りの大人に全て保証されていて、ずっとそれが続くと思っていたから。例えば僕らは、地球の裏側で起こっている飢餓について深刻に考え悩むことなんてない。何故なら、その必要がないからだ。結局それは自分の生活とは全く関係ない問題だから。

とても当たり前の話だけど、僕らは考える必要が無いことについては全く考えない。逆に、僕らがお金の稼ぎ方を考え悩むのは僕らが裕福でないからだし、対人関係について考え悩むのは僕らが人と上手く関われないからだ。同じように、僕らが幸福について考えるのは、僕らが幸福でないからだ。本当に幸福である人間はわざわざ考えたりもしない。幸福を考えることは僕らが不幸である何よりの証左だ。だから、少なくとも幸福について考えている時間は幸福ではない。むしろ、僕らはそれについて考えれば考えるほど、答えの出ない穴に嵌って、自己嫌悪と絶望を加速させてしまう。僕らが深夜にばかり心を病むのは、考える時間がそこに有り余っているからだと思う。そもそも振り返ってみて、僕らが独りで悩んで病んで、何か解決を見つけられた夜があっただろうか。

 

 

だから、だからさ。僕らが本当に目指すべきなのは、幸福だとか人生だとか自分自身だとか、そういう取るに足らない諸問題について考えることを必要としない生だと思う。僕らが求めるべきなのは、何か考えて考えて解決を探ることよりも、そもそもそんなことを考えなくて良い時間だと思う。考える必要のない生。問題が問題として浮かんでこない人生。言うなれば、僕らの幸福は、問題の解決ではなく問題の消失によって初めて達成される。問題がそもそも起きえない時間、考えなくていい程に満ち足りた時間。それこそが本当に幸せな時間であり、僕らが追い求めるものだ。

絶望を覚えるほどには賢く、それを克服するほどには賢くない僕らに残された最後の手段、それは"考えなくていい時間"だ。僕らはそういう時間を一秒でも長く過ごすための努力をしなくちゃいけない。僕らが考えるべきなのは、諸問題自体ではなく、その諸問題が起きえない時間をどれだけ増やせるか、だ。

そして、その時間がどういうものかと言うと、"私が楽しいと思える時間"であることは間違いない。どんなに辛くて苦しくても、少しでも楽しいと思える時間は誰しもが持っているはずだ。好きな音楽を聞く時間、好きなアニメを見る時間、好きな国へ旅する時間、好きな楽器を弾く時間、好きなスポーツをする時間、好きな人と過ごす時間。どんなに些細でちっぽけな事でもいい。そういう小さな"好き"を全部全部見つけ出してあげて、ちゃんと向き合うこと。そういう時間をたくさん見つけて、笑って過ごすこと。幸福や人生の意味だなんて考えなくていいような、些細な"楽しい"と過ごす時間。僕らが目指すべき幸せはきっとそこにある。本当に大切なものは失って初めて気づく、という言葉は真理かもしれない。本当の幸せとは、幸福に無自覚な時間だと思う。でも、哀しみばかりが心の容量を食い潰して、小さな幸せに気づけない生活はもう終わりにしたい。

 

一日の中で23時間悩み苦しんでいたとしても、残りの一時間は考えずに楽しく過ごせているのなら。友達とのお喋りでも買い物でもアニメでも何でもいい。僕らはその一時間を、二時間に増やすために生きていくんだ。二時間を三時間に、三時間を五時間に。そうやって楽しい時間を増やしていって、いつかちゃんと前を向けるように。

そのためには、自分の"好き"と"楽しい"をしっかり見定めなければ。僕らは、この二つをどれだけ心の中から掘り起こしてあげられるかを考えなければいけない。自分は何が好きで、何を楽しいと思えるのか。それを見つけるのは、幸福の問題に答えを出すことより遥かに簡単だ。きっとできる。

 

だからもう、誰かの幸せと自分の幸せを比べるのはやめよう。楽しいと思える時間は人それぞれ違う。最初から他人と自分の幸せを比べることなんて出来ない。する必要もない。僕らが毎日スマホを睨んで見ているのは、どこかの誰かの羨ましい幸福だ。そんなことをしているより、自分の楽しい時間の増やし方を考えた方がよっぽど良い。幸せは他者の介在を許さない絶対的主観だ。隣の芝生に私の幸せは落ちていない。

 

 

 

僕は冒頭で「なんて生きやすい世界なんだろう」と書いたけど、あれは嘘っぱちだ。この世界は、この社会は、生存しやすくとも生きやすくはない。僕らはそんな世界で生きている。不運にも、生きづらい世界に、生きにくい心を持って生まれてきた僕ら。まあでも、世界を変えることは出来なくても、自分の心を変えることくらいは出来るかもしれない。生きづらい世界がこのままなら、僕ら自身が変わるしかないんだ。井の中の蛙だって、自分を蛙ことくらいは出来るはずだ。なんつって。

 

何も良くならない現実に苛まれて、自分自身を嫌いになる前に、もう一度ちゃんと。

自分が本当に楽しいと思える時間を過ごそう。無自覚な幸福を肌で噛み締めながら生きていこう。幸福の問題がいくら手を伸ばしても届かないくらい楽しい所にいよう。自分の"好き"に真っ直ぐでいよう。僕らは好きなことに好きで居ていいんだ。

そうやって生きていって、いつの日か、自分自身もそのたくさんの"好き"の中に仲間入り出来たなら。きっと、それ以上に幸せなことは無いだろう。

 

今日の僕は、これまでの人生で一番老いていて、これからの人生で一番若い。人生のど真ん中にいる今日の僕は、まだ旅路の途中だ。この人生は、自分自身をちゃんと認めてあげるための物語かもしれない。最後は自分に満足して終わりたい。

本当の意味での、生きるための積極的"思考"は、きっとこれに違いない。

 

 

 

そんな感じで、何の解決もしていないけれど、まあ、これから辿るべき道しるべくらいは見つけられたと思う。

 

生きてれば良いこともあるよだなんて言えないが、死ぬのはまだずっと先でいい。

 

そんなことを思いつつ、とりあえず僕は明日も生きてみることにします。

 

もしよければ、あなたもどうですか。

 

 

 

晴れときどき煙

地球上からいっさいの生物が絶滅したとするね。

──いきなり、何さ。

そのとき、それでも夕焼けはなお赤いだろうか。

──何か不気味な色に変わるとでも?

いや、見るものがいなくとも夕焼けは色をもつか、ということ。

──もちろん何か色をもつだろうね。例えば、核戦争のあと、見られることもなく西の空が奇妙な色に染まるとか。だけど、突然どうして?

漠然とした言い方で申し訳ないけど、例えば見ることと見られた対象ないし世界ということで、どうもなんだか釈然としない気分がある。いま、西陽に照らされた雲を見ていて、以前少し考えていたことを君と考えてみたくなったんだ。君はみるものがいなくとも夕焼けは何か色をもつだろうと言ったね。でも、私はもたないと思う。

──どうして。

もし、青と黄の系統しか感知しない生物だけが生き残ったらどうなる?

──そうしたら、なんだ、何色になるんだ?暗い緑に染まるのかな。

そのとき、夕焼けの色は暗い緑だ、と。

──そうなるね。

その生物も死滅したら?

──そうなったら・・・・・・、そうか。そのとき夕焼けの色も「死滅」しちゃうか。もう夕焼けは何色でもなくなる。

色は対象そのものの性質ではなく、むしろ、対象とそれを見るものとの合作とでも言うべきではないか。それゆえ、見るものがいなくなったならば、物は色を失う。世界は本来無色なのであり、色とは自分の視野に現れる性質にほかならない。そう思わないか?

──分かるような気もするけど、なんか、おかしいな。

うん、私もどこかすっきりしない。だが、どこがおかしいのだろう。

──例えば、ぼくが死んだって世界は色を失うわけじゃないよね。

『哲学の謎』 著:野矢茂樹

 

 

素敵な文章に憧れている。素敵な文章が書ける人を尊敬している。僕にとって素敵な文章とは、言葉にするのは難しいけど、例えるならば桜東風のようなもの。温かく体に触れて、しっとりと心に染み渡っていくようなもの。暑さだとか空腹だとか心配事だとか、そういう雑音を忘れてしまうほどに、僕の意識をすっぽりと包み込んでくれるもの。手に触れて心地よいことを手触りが良いと言うのなら、読んで心地よいことを目触りが良いと言いたい。目障りではなく、目触り。心に障らず、心に触れる。それが素敵な文章。

そういう文章には、きっと表現の巧拙とか文法の正確さとかは関係ない。大事なのは、心の一番深く、泉を写し取ること。底から溢れ出る何かを、どこまで純化して外に取り出せるか。それだけだ。

だから今回は、あれこれと文章を捏ねくり回すのはもうやめて、泉から出るものをなるべくそのままの形で言葉にしよう。

 

この文章を書いている今は10月10日の午前3時。ただ深夜の感傷だけが筆を走らせている。

スマホで書いてるんだから筆じゃなくて指だろ、と野暮なことを考えたりもした。

 

 

 

世界は不思議で満ちている、と常々思う。僕らの生活を一歩引いて見てみれば、日常は超常に溢れている。もし本当に神様が居て、こんな不思議だらけの世界をたった7日間で作り上げたのなら、奴は相当な変人に違いない。もう少し時間を掛けて慎重に作っても良かったんじゃないかと責めたくもなる。そうすれば、僕らももう少し不合理や不可解に悩まずに生きられたかもしれないのに。

多分この世界の不思議の数々は、せっかち過ぎる神様が創った巨大な作品群だ。軽率でどうしようもない奴の忘れ形見。そして、不思議はただ不思議であるというそれだけで、人の心を惹きつける。

 

 

空は僕らに最も身近な不思議のひとつだ。僕らはもうだいぶ生きたせいで見慣れてしまったけれど、もう特別に思うことも少なくなってしまったけれど、僕らの生きる世界の天井がこんなにも彩りを持っていて、しかも日によって時によって全く姿を変えてしまうものだなんて、まさに不思議としか言い様がない。朝方の空は透き通るような青、夕暮れは寂寥的な橙、夜はどこか支配的な黒。一日の中で空はこんなにも姿を変える。しかも空は雲っていうアクセサリーで自分を好きに着飾っていて、それもまた移動するし形も変わるから、もう意味がわからない。同じ川に二度入ることは出来ない、と昔の偉い人が言っていたけど、同じ空を見ることもまた、二度目は無いのだろう。

それにしても、どういう頭をしていたら、こんな奇想天外なものを思い付くのだろう。仮にあなたが世界創生前の神様で、この世界に住む生き物たちの天井は色が変わるものにしよう、だなんて言い出したら、僕はきっとびっくりしてしまう。まあ神様の頭の中はそれこそ人の身には語りえぬものなんだろうけど、案外せっかちな奴のことだから、何も考えずに数種類の絵の具の中から適当にスプーンで掬って空の色を決めたのかもしれない。神様の匙加減と、それを見る僕らの意識によって、空は色を与えられた。

 

 

 

 

僕らの天井は水を落とす。

人は詩や歌の中で雨を涙と表現することがしばしばある。「空の涙」だとか、「泣きだしそうな空」だとか。空は果たして泣くだろうか。

僕はたまに、雨は涙なんかよりもっとおぞましいものに思えることがある。空、天蓋、世界の天井。世界が泣くはずなんかない。だって苦しくて泣くのはいつだって僕らの方じゃないか。世界は苦しめる側であって泣く側ではない。そう、涙じゃないなら、きっと涎だ。雨は神様というやつが空から涎を垂らしているみたいだ。いつ食べてやろうかと僕らを見下ろしながら、口を開けてその時を待っている。散々苦しめて泣かせて、最後にぱくり。神様め、なんてやつだ。

 

そういえばどこかのバンドも神様を悪人だと歌っていたな。涎が降ったら傘を差そう。あまざらしにならないように。

 

 

 


ふと窓の外を見ると、だいぶ空が白んできた。すぐそこまで朝が来ている。夜の帳に覆われた僕ひとりだけの時間がもうすぐ終わる。世界はまたここから活気を取り戻すのだろう。僕は窓を開けて煙草を吸いながら、空を見上げた。綺麗な秋晴れの空だ。

口から吐いた煙草の煙が昇っていって空に溶ける。それを見て僕は、まるで煙が雲の一部になってしまったようだと思った。

 

今日の天気は、晴れときどき煙。

 

 

 

こと:事:異:言


例えば、とある組織が実験を行ったとする。これを"とある組織による実験"と名付けよう。実験対象はAくんとA´くんという2人の人間。この2人は身長や体重、顔といった外見、そして脳の構造までもが完全に一致したクローンとして生まれた。2人には別々の家族が居る。ただし、Aくんの家族もA’くんの家族もまた、容姿や思考が完全に同一のクローンである。この2人は別々の家で育てられ、成長過程でお互いが出会うことはない。2人は生まれた瞬間から大人になるまで、全く同じものを見、聞き、読み、食べ、同じ人間と会話をすることで肉体と精神を成熟させていった。さて、このようにして遺伝子から成長過程まで全てが同一に調整された2人には決定的に違う部分が1つだけ存在する。それは使用言語である。Aくんは日本語、A’くんは英語を母語として育てられた。2人が読む本、聞く音楽、見る映像、他人との会話、その内容は全て同じであるが、Aくんはそれらを日本語で行い、A’くんは英語で行った。時が流れ、やがて彼らは大人になった。

僕はここで1つの問いを見る。

「ではこの時、彼らの間に思考の差異は見られるだろうか。」

使用言語以外完全に一致する2人。彼らの頭の中では世界はどのように解釈され、そしてそこに違いは生まれるのだろうか…。

 

 

 前回の記事を書いてから僕はずっとそんなことを考えていた。というのも、僕は前回の記事で「人は言語によって思考する、という説を僕は支持している。」と高説垂れておきながらも、その実考えれば考えるほどそれは僕にとって素直に受け入れ難く腑に落ちないものになってしまったのだ。だから今回の記事ではそれについてもう少し掘り下げていきたいと思う。僕が知りたいことはただ一つ。

「人の頭の中では、言語と思考どちらが先行し、そのもう一方を規定しているのか。」

多分この命題は今まで幾人もの学者や研究者たちによって語り尽くされた話だと思うし、それこそ僕の頭の中では取り扱い切れないほどに難儀なものだとも思う。現に僕の頭の中では既にあれでもないこれでもないといった色々な考えが傍若無人に飛び回っていて、軽く錯乱状態にある。まるで脳内会議に円卓を囲んだいくつもの「考え」さん達が、我こそが正しいのだと自分の正当性を激しく主張し合い、しかも議長であるところの僕はそれらが全部正しく聞こえるもんだからなお困ってしまうような…。まさに会議は踊る、されどなんとやら。そしてこの記事を書いている今もそれは収拾が着いていないので、とりあえず今回は順序立てて作文するよりも、僕が考えたことをそのまま抽出して書き出していきたいと思う。当たり前だけど僕は学者でも何でもないただの一般人なのでそれらには何の学術的根拠もないし、いくらでも反駁しようのあるものだろう。もしくはとっくに先人によって語り尽くされたことかもしれない。それでも自分で考えることに意味があるのだと己に言い聞かせて、少し書いてみることにしよう。

まあ、床に取り散らかったページを拾い上げるだけでは、それは物語にはならないのだけども。

 

そうであれば良いなぁ

まずそもそも僕がこんなことを考え出したきっかけとして、言語が思考を規定していたら面白いなぁ、そうであって欲しいなぁ、その方が良いのになぁ、という自身のおかしな希望がある。なんと言えばいいか、人類史上最大の発明にして文明興隆の原初であるところの言語が、ただの意思コミュニケーションツールごときの範疇に収まって欲しくないというか、もっと不思議な特質が備わっているんだと考えた方がわくわくするというか…。そう、僕は言語がもっと特別な何かであって欲しい。

きっと人は現実を言語というフィルターを通して認識している。言語が異なれば、果たして世界の捉え方も異なるだろう。同じ言語話者の間であっても、人によって頭に蓄積されている言語のデータは異なるのだから、また違う現実がそこにはあるのかもしれない。世界は1つではなく、人の数だけ存在する。世界は無限に拡散している…。ふふふ。なんだか面白くなってきたなぁ。と、ここまで考えたところで少し調べてみると、これとよく似た考えは「サピア=ウォーフの仮説」という説によってとっくに世に出ていたらしい。やれやれ。

 

 

 

とある組織による実験

じゃあそれをどうやって証明すれば良いのだろう。人の認識、思考、解釈、それらは言語が担っているのだとどうすれば断定できるのか。

サピア=ウォーフについて少し調べていたら、気になるページを見つけた。

使う言語が「世界の見え方」を決めている:研究結果|WIRED.jp

研究を行ったランカスター大学の言語学者、パノス・アサナソプロスは、被験者に、自動車の方向へと歩いている人物の動画を見せた。その様子を言葉で描写させたところ、英語を母国語とする人の多くは「人が歩いている」動画だと答えたのに対し、ドイツ語を母国語とする人の多くは「自動車に向かって歩いている人」の動画だと答えたのである。

つまり、ドイツ語を母国語とする人は、人物の行為だけでなくその目的も一緒に描写する傾向があるのだ。なぜなら彼らの言語は、出来事を全体において考察する、全体論的観点をもつ言語だからである。これに対して、英語を話す人は、行為そのものだけに注意を集中させる傾向を持っているようだ。

 

なるほど。

でも、これだけではその認識の差異が言語によるものだと断言出来ないような気もする。だって英語話者とドイツ語話者の間にあるのは言語の違いだけでなく、きっと受けてきた教育も文化的歴史的背景も社会のあり方も食べてきた物もよく聞く音楽もよく読む本も、何もかもが違うのだから。それだけの異なる経験がありながら、どうして彼らの思考の差異が言語の違いによるものだと断定できるのだろうか。もしかしたらドイツ人は「人物の行為だけでなくその目的も一緒に描写する」ことにより重きを置かれた教育を受けてきたのかもしれない。対照実験をするには異なる要因が多すぎる。

そう、だから"とある組織による実験"が必要なのだ。概要は記事の冒頭に記した通り。脳の構造、教育、経験、環境、その全てが同一であり、そして言語のみが異なる2人ならば、それはきっと対照実験としての意味を持つ。言語と思考の関係を解き明かすには、究極的にはこの方法しかないんじゃないかな。

でも、そうだよね。もちろんこの実験は実現し得ない。だからこれは例えばの話。理想気体ならぬ理想実験。そういうものだと思って欲しい。

 

 

 

問いへの答え

さて、ではこの実験の問いへの答えだけど、結論から言うと僕は差異は生まれると思う。思うというよりは、"そんな気がする"程度だけども。

日本語には「時が流れる」という言葉がある。時間には流れがあるらしい。明日、来週、来年…。僕らはそういう先の未来を想起する。しかし、未来はいつまでも"未だ来ず"のままではいられない。それは現在になり、いずれ過去になる。まさに川の流れにのっているように。遠い未来だったはずの事物はいつか現在となり、やがて過去になり、そしてさらに遠ざかっていく。僕らは時間をそういうものだと暗黙のうちに了解している。そういう流れの中に僕らは生きているのだと。しかし、その了解は当たり前のものでは無いかもしれない。

僕らが時間に流れのイメージを見て取るのは、日本語という言語がそうだからかもしれない。僕らが時間に流れの意識を獲得したのはいつだっただろう。恐らく覚えている人は居ないだろうけど、僕はそれは言葉を使い始めた瞬間だと思う。大人たちから「時が流れる」という言葉を聞いた時、本で読んだ時、そして自ら使い始めた時、初めて僕らは時間に流れを認めた。「時が流れる」を日常的に使う中で、時という概念の解釈は脳に蓄積されていった。僕らは日本語によって時を知ったのだ。つまり、僕らの時間に対する認識は、たまたま使用言語が日本語だったからに過ぎない。だから、もし仮に日本語での「時の流れ」という言葉に相当する表現が無い言語を使う人達は、時という概念に関して僕らとは全く異なる認識をしていることだってありうる。時には流れなんてものはなく、未来も過去もなくただ現在のみがあるのだと、そういう現実に生きる人達だっているかもしれない。

話は少し変わるけれど、英語には「Time flies.」という表現がある。日本語ではふつう時は飛ばない。でも、彼らの言語では飛ぶものらしい。彼らはそういう現実を持っている。日本人の時が流れるものであるように。

ということで、このように概念の認識が言語によって変わるのならば、やはりAくんとA'くんの間には差異が生まれるのだろう。2人は違う現実を見ている。

 

 

いや、でも…

という所までが、前回の記事を書いた時までに考えていた話。"でもよくよく考えるとそんなことは無いのかもしれない"と考え始めたのが、ここからの話。

僕はさっき「時が流れる」の例を出して言語が概念の解釈に影響を及ぼしている可能性を述べたけど、実はこれは論としてはとても脆い。

「エモい」という言葉をご存知だろうか。最近になって漸く市民権を得てきた言葉だけれど、じゃあこの言葉ができる前、僕らの心には「エモい」に相当するような感情の動きや気持ちが無かったのだろうか。「エモい」という言葉が作り出されたと同時に、僕らの心の中にも「エモい」が生まれたのだろうか。きっとそうでは無いだろう。多分僕らは古くから心の中に「エモい」という感情を持っていて、だけどその複雑で名状しがたいそれを的確に言い表せる言葉を持ち合わせていなかった。だから誰かがその感情に名前を付けて、それが「エモい」になった。つまり、先に感情(現実)があってそれを表象するために後から言葉が出来た、と。これは「時が流れる」の話にも言えることで、時間には未来と現在と過去があってそれが移ろいで行くものだ、という認識が昔から日本人にはあって、「時が流れる」はそのイメージを最もよく表せる言葉として作られただけに過ぎない。僕らがこの表現を使うのは、日本人が元々時は流れるものだと考える民族だからだ。言うなれば、「時が流れる」ので時が流れているのではなく、時が流れているので「時が流れる」のだ。なんだかトートロジーじみてきたなぁ。ちょっと違うけど。

だからまあ、現実は言語に先行している。当たり前と言えば当たり前の話。

 

余談だけど、「時が流れる」という表現は日本語に限らず、英語にもフランス語にも、他の多くの言語に存在する。どの時代どの地域どの文化にあっても、時には流れが認められているみたい。ユング集合的無意識…。そういう何かがあるのかもしれない。

 

 

 

チンパンジー

この話は簡単。チンパンジーは恐らく言語を持ち合わせていない。でも確実に思考している。つまり言語がなくとも思考はできる。終わり。

 

 

ポテチを食べる

そもそも"僕は言語によって思考している"という感覚はどこから来るのだろうか。その根拠として一番大きいのは、僕らは考えるとき脳内で思考を文章化しているところだろう。

前回の記事で挙げた例をもう一度出そう。

「あなたが今僕の文章を読んで何を考えたかを考えて下さい。」

この時、恐らくあなたは「長ったらしい文章だなあ」とか「そんなことよりラーメン食べたいなあ」とか、まあとにかく何かしらを頭の中で文章にしたと思う。そこに言語が用いられているのだから、やはり思考は言語によって行われているように思われる。しかし実はこれも誤りかもしれない。

こうは考えられないだろうか。実は僕らは脳内での文章化より前に"思考"していて、その内容が0.00001秒後に言語に翻訳され、僕らの意識上にはその文章化された部分しか浮かんでこない、と。うーん何言ってるかさっぱり分からない。これは僕がフラフラと近所の神社を散歩していた時にふと思い付いたもので、自分でも上手く整理できていないから文字に起こすのは尚更骨が折れる。ので、ちょっと図の力を借りることにした。

 


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何かについて考える時、僕らは頭の中で文章を作っている。ところが、これは思考というプロセスにおいては二次的なもので、実はその前の段階として"本物の思考"なるもの(便宜上僕が勝手にそう呼んでるだけ)が存在する。僕らが本当の意味で"考えている"のはこの部分で、文章として僕らの頭の中に知覚できるものはそれが言語に翻訳された副次物に過ぎない。ただこの翻訳の行程は"本物の思考"と限りなく同時に行われるので、僕らは文章化されたものを思考そのものだと思ってしまう。例えば「音楽は芸術である」と考えた時、そう考えたと思っている0.00001秒前にまず頭の中で"本物の思考"が行われていて、「音楽=芸術」という決定がなされる。次に言語における単語や文法などを適用して「音楽は芸術である」という文章がほぼ同時に作られる。そうやって最終的に出来上がった文章を僕らは思考として知覚しているのだ。つまり、思考は言語によって知覚されているだけで、言語によって為されているわけではない。だから、チンパンジーは思考とそれに基づいた行動は出来るが自分が何をどう思考しているかは自覚できない。上手く伝わってるかなぁ。

僕がこう考える根拠が一つあって、例えば、自分の部屋にいるあなたはお腹が空いたのでリビングにあるポテチを食べようと思ったとしよう。あなたは体を起こして部屋のドアを開け、リビングに入るとポテチを手に取り、袋を開けて中身を口に入れた。この一連の動作の中で、あなたはなにか思考を文章化するだろうか。ドアを開ける時「このドアを開けてリビングに入らなければポテチは手に取れない」だとか、ポテチを食べる時「ポテチの袋を開けないと中身を取り出せないのだ」だとかいちいち思っただろうか。恐らく思わないだろう。僕らは世界平和について思いを巡らせながらドアを開けているし、ポテチの袋を開ける時あなたは明日の大事な試験のことばかり考えている。

僕らが無意識的に行っている行動は、"本物の思考"により実行されているが、言語に翻訳する行程がすっぽりと抜け落ちているので知覚されていないのではないだろうか。当然人は考えなければ何も行動出来ないので、ドアにしてもポテチの袋にしても、動作一つ一つには確かに思考が行われている。「ドアノブに手をかけて捻り、手前に引くことで…」と。しかしこれらの思考はわざわざ文章化するほどのことではないから意識上には浮かんでこない。翻訳は省略ができる。むしろ、言語に翻訳する行程を省くことによって、僕らは無意識的に何かをすることが出来ると言える。ドアとポテチを目の前にして、いちいち「これを開けなければ…」とか言葉にしていたら疲れてしょうがない。というか、僕らの日常での行動のほとんどは意識されない思考によるものだろう。頭の中で言語化して考えるのは、よっぽど関心を引くものか複雑なものか、そういう類のものだ。

少し長くなったのでまとめると、"本物の思考"が言語に翻訳されたものを、僕らは思考として知覚している。ただし、翻訳は必須の行程ではなくて、意識上に浮かばない思考もある。ということである。「自分でも気付かずに○○していた」という体験は、僕らにとってとてもありふれたものだ。

 

 

 

 

全てではないけれど、以上が僕の考えたことのだいたいだ。

 

結局、元の問い「人の頭の中では、言語と思考どちらが先行し、そのもう一方を規定しているのか。」について答えを出すなら、「言語は思考を規定しないが、影響を与える可能性は十分にある」くらいに留めておくのが丁度いいだろう。言語は僕らが取り扱う思考や現実の中にあって、そしてとても重要な役割を持っていることは間違いない。言語がもっと特別な何かであってほしいという願望から始まった堂々巡りは、当初の予想とは違う形ではあったけれど、言語を特別なものにしてくれた。

 

 

 

僕らは言葉の力に頼らなければ、自身が何を考えているかでさえ知りえない。よく「他人が本当は何を考えているかなんて分からない」と言うけれど、それは自分自身だってそうだ。言語が自分の思考全てを形にしてくれているとは限らないのだから。逆に言えば、言葉を覚え、学び、使うことで、僕らはより僕ら自身を知ることが出来る。僕がこれから知る言葉は僕自身だ。言葉が自分を教えてくれる。人の言語の真価はきっとそこにある。

 

 

僕は言葉が好きだ。

今そう考えたことを、僕は言葉によって知った。

 

 

 

ブログを始めることにした

ブログを始めることにした。といってもこういったことをするのは初めてで、いかんせん何を書いたらいいのか定まらない。そもそも自分の文章を書くというのも、大学のレポートすら極力書かないで済むように生きている僕にとっては中々経験が少なく難しい。せいぜいツイッターで思ったことを140字に収めて書くくらいで、それすらも最近はなんだか憚られるように感じていた。推敲という言葉は僕の人生では常に黒いシーツの下に覆われている。じゃあ尚更ブログなんて書く必要性も理由も無いように思われるかもしれないけども、それでも僕は始めることにした。子どもの頃からとにかく飽きっぽくて、3日坊主どころかやろうと決めたその日のうちに何をやろうとしたのか忘れてしまう0日坊主だった点だけが心配である。大丈夫かな。


僕はここ1年で色々なことを考えるようになった。というよりも、考えることを放棄しながら生きてきた僕が、ようやく人並みに何かを考え始めたといってもいい。世界のこと、社会のこと、他人のこと、人生のこと、「私」のこと、心の在り方のこと、そして、それらの終わらせ方のこと。特にここ数ヶ月はどうにも精神的に参っていたので、そうした「考え」により多くの時間が費やされるようになった。

人は言語によって思考する、という説を僕は支持している。明日はこんな1日になるだろう、僕はもっとこうするべきだ、目的を達成するにはこうすればいいだろう、といった脳内の全ての作用は言語のもとに行われている。言語は単なる人対人のコミュニケーションツールという枠組みを超越し、人が人足るべき要素として脳内に悠然と君臨している。もちろんこれには反対意見もあって、例えば言語を習得する前の赤ん坊は思考をしていないことになるのか、とか、思考は脳内で何物にも依らず行われるもので言語はそれを外に表象するツールに過ぎない、とか。でも僕はやっぱり思う。思考には言語が必要だと。「私はあれが好き、嫌い。私はあれが良いと思う。悪いと思う。私はあれが美しいと思う。醜いと思う。」こうした、思考というより感情に近いような価値判断には言語を要さないが、「お金を稼ぐためにはどうしたら良いか。あの人と仲良くするためには。これとあれどちらが良いだろうか。」といった、より高度な、というより日常レベルの思考には言語が絶対に欠かせないのではないかと。
例えばあなたが今僕の文章を読んで何を考えたかを考えて下さい。


考えましたか?


では、今その思考に言語を用いていませんか?
とか。


なんだかごちゃごちゃしてきたけれど、何故こんな話をしているかというと、僕はここ最近の自分の思考が上手く言語化出来ていないようなモヤモヤを抱えているからである。思考は言語によって行われるのにそれが言語化出来ていないというのはおかしなパラドックスを感じるかもしれないが、とにかくわけも分からずモヤモヤしているのである。ああ思ったりこう思ったりしながら自分なりの結論を出したはずなのに、それは紛れもなく自分の思考のはずなのに、上手くその輪郭が掴めない。まるで頭の中で泥水に沈んでいるかのように見通せない。言語を要するはずの思考が言語化出来ないなんて、それは本当に思考と呼べるのか?僕はパラドックスを解消したい。だからブログを書くことにした。頭の中の事態を文字に書き起こして、目に見える形に留める。単語を選択し、文法を適用し、文脈を整序する。そうやって泥水から掬い出してやることで、僕は自分の思考が思考として成立していると自認したいのである。自分の恥ずかしい恥ずかしい頭の中を、人様の目に付いても大丈夫なように目いっぱいおめかししてやる。その練習をこれからしていきたいと思う。そして最終的な目標は、最初に述べたような世界のこととか「私」のこととか人生のこととか、そういう全ての「考え」を棄却して「問い」から解放されることだったりする。このこともいつかちゃんと書き起こせたら良いなと思う。

ここまで書いてきて頭の中を言葉にするのはやっぱり大変だなと思った。
正直ちゃんと続けられるかは分からない。
でもこうして一応文章を書き終えられたところを見ると、どうやら0日坊主からは卒業出来たようである。黒いシーツをぺらりとめくって。